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2010年3月22日月曜日

ミドルメディアの時代(自分の為に保存用です)

メディアの現在と今後について、知らない考え方や言葉が解説してあったので、今回は自分の為に貼ってます(笑)。興味深い内容なので、だれにでもかなりオススメですが…(笑)。

参照元・内田樹氏ブログ
http://blog.tatsuru.com/

ミドルメディアの時代

出版社からいろいろ本が送られてくる ぜひご高評賜りたく」というようなことが書いてある でも、よほどのことがないと書評は書かない つまらなければそのままゴミ箱に放り込み、面白ければ酔っぱらい ながらでも読み進み(翌朝内容をすっかり忘れている)というよう な自分勝手な読み方は書評家には許されないからである(当たり前 だが) だから、これまでにいくつかの新聞社や出版社から書評委員になっ てほしいというオッファーが来たけれど、全部お断りした それでも、本は毎日のように送られてくる でも、年末から久生十蘭が「マイブーム」なので、送られてきた本 までなかなか手が回らない でも、面白そうな本は「寝ころんで休憩」というときにぱらぱらと めくることがある たまたま手に取った『2011年 新聞・テレビ消滅』(佐々木俊 尚、文春新書)がたいへん面白かった。(注:最初『2010年 と書いていました。訂正します。佐々木さん、すみません) 新聞とテレビがビジネスモデルとして限界に近づきつつあるという ことは実感としては確かだが、新聞もテレビもそのようなことは報 道しない(当たり前か) 三年ほど前、「テレビはもうメディアとして末期的ではないか」と いうことを某新聞の紙面批評の場で申し上げたことがある ある巨大なメディアがビジネスモデルとして瓦解しようとしている 事情をなぜ新聞は報道しないのかという私の言葉に対して、ひとり の論説委員が立ち上がって、「あのね、テレビを『俗悪だ』って批 判すると、その番組の視聴率が上がるだけなんだよ」と渋面をつ くって答えた 私は別に個別的な番組の良否を問題にしていたのではなく、「ある メディアが命脈が尽きようとしている」興味深い歴史的状況につい てどうして他のメディアは批評的に機能しえないのかという原理的 な問題を述べたのである。「俗悪番組」とか「視聴率」とかいう テレビ業界内的」なイシューには私は何の興味もない だが、渋い顔をしてみせた論説委員はテレビの問題を「テレビ業界 内部的」な枠組みでしか考えることができなくなっていたのであ る 私は「こんなのが論説委員をしているようでは新聞というメディア も長くはないな」と思って、気落ちしてその場を去ったのである 新聞とテレビは久しく危機的状況にある けれども、どういうふうに危機的であるのかを新聞もテレビも報道 しない 組織防衛的な意味で、システムの脆弱性を秘匿して、延命をはかっ ている意図的な「見ないふり」ならまだ許せる けれども、どうやら事態はさらに悪く、彼らは日本のマスメディア が構造的危機に立ち至っているという事態を「うまく理解できてい ない」ようなのである おそらく、自己言及するための言葉を持たないという「批評性の欠 如」そのものがこの二つの凋落しつつあるマスメディアの危機の本 質であろうかと思う ジャーナリズムとは、その社会で起きつつある「直視したくない ダークサイド」にあえて踏み込むことで、ひろびろとした展望を語 ることを責務のひとつとするものではなかったのか マスメディアの凋落という事態そのものもまた、マスメディアが冷 徹に分析すべき「社会的事象」に算入されるべきだと私は思う つねづね申し上げているように、「知性的」というのは、「おのれ の知性の不調を勘定に入れることのできる能力」のことである マスメディアが「おのれの知的不調を勘定に入れることができな い」まま推移するのであれば、その命脈が尽きるのは想像するより 早いと思う で、本の話だけれど、佐々木さんの『2011年新聞・テレビ消 滅』はリアルかつクールに「ビジネスモデルとしてもうダメ」とい うことを淡々と論証した本である インターネットが出てきて、もう旧来のマスメディアはその歴史的 意義を失った これからはマスメディアとパーソナルメディアの中間の「ミドルメ ディア」が情報流通のデフォルトになるだろうという見通しを佐々 木さんは示している 新聞社もテレビ局も、生き延びようと望むなら、ダウンサイジング して、良質なコンテンツの提供者という「小商い」にシフトするほ かないだろうと私も思う 新聞記事やテレビ番組といった「コンテンツ」をアレンジして 情報商品」としてパッケージするプロセスは「コンテナ」と呼ば れる その「情報商品」をエンドユーザーに届けるプロセスは「コンベ ア」と呼ばれる メディアによる情報配信は「コンテンツ−コンテナ−コンベヤ」の 三層構造になっている 新聞の場合は個々の記事が「コンテンツ」、新聞という媒体が「コ ンテナ」、販売店が「コンベヤ」である。テレビの場合は個々の番 組が「コンテンツ」、そこにCMを載せたり、番組表を編成する コンテナ」がテレビ、地上波、CATVが「コンベヤ」である この3C構造の中で、利益を上げているのは実は「パッケージ」部 門を管轄する「コンテナ」部分である テレビでは「コンテナ」がyou tube に移りつつある 新聞では、「コンテナ」がネットに移りつつある この構造的な変化の行く末を佐々木さんはこんなふうに書いてい る 垂直統合がバラバラに分解して、新聞社やテレビ局は、単なるコ ンテンツ提供事業者でしかなくなった。パワーは、コンテナを握っ ている者の側に移りつつあるのだ。もちろん、コンテンツの重要性 が失われるわけではない。良い記事、良い番組コンテンツはこれか らも見られ続けるけれども、そのコントロールを握るのはいまやコ ンテナの側にシフトしはじめているのだ これこそが新たなメディアプラットフォームの時代である コンテナを握る者こそが、プラットフォームの支配者−すなわち 握っている人がすべてをコントロールするプラットフォーマーに なっていく。」(49頁) 新聞社やテレビ局が「プラットフォーマー」であることを止めたあ と、メディアの中心になるのは「ミドルメディア」である ミドルメディアを佐々木さんはこう定義する 特定の企業や業界、特定の分野、特定の趣味の人たちなど、数千 人から数十万人の規模の特定層に向けて発信される情報」(52 頁) このミドルメディアをどうやってビジネスに結びつけるかという論 件がこのあと展開するのだが、上に述べたとおり、ミドルメディア をベースにするビジネスはどう転んでも「小商い」になるしかない と私は思う そして、「小商い」でいいじゃないかとも思うのである マスで製造されたものがパーソナルに消費されるという経済構造そ のものが共同体の解体と個の原子化という現況を結果したのであ る それに対する補正の動きが、「中間的なメディアによって結ばれ る、中間的な共同体」であることは、理の当然である そして、中間的共同体の「中間性」は、まさしくそれがビジネスオ リエンテッドではないということに担保されている 中間共同体の共同性は「うまく立ち回ったもの」に傾斜的に利益が 配分され、「しくじったもの」が損をこうむるためのものではな く、そこに蓄積されたリソースがメンバーたちにフェアに分配され るための共同性である だから、ミドルメディアは本質的に「反資本主義的」なものたらざ るを得ないだろうと私は思う ミドルメディアが支配的なメディア形態になるだろうという見通し は蓋然性が高い けれども、そのミドルメディアを使って「どうやって自己利益を増 大させるか?」という発想をする人は、たぶんこのシフトの歴史的 な意味がよくわかっていないのだと思う 本書の終わりの方で鳥越俊太郎さんが編集長になって始まった オーマイニュース」が鳴り物入りでスタートしてわずか3年でサ イトごと閉鎖されてしまったことが告げられていた(始まったのは 知っていたが、つぶれたことは知らなかった) これは市民が記者となってネット上に新聞を作るというコンセプト のプロジェクトだったけれど、送られてくるニュースのコンテンツ の質の管理が困難なために、メディアとして成り立たなかった ミドルメディアを使った活動は「コンテンツ提供者とその享受者た ちのあいだでの人間的信頼関係が保たれる程度の小商い」というの がいちばん「つきづきしい」形態だろうと私は思う コンテンツの質を最終的に担保するのは、コンテンツ作成者の「受 信者の知性と批評性」に対する敬意と信頼だと私は思う それは言い換えると、情報コンテンツは本質的には「商品」ではな く「贈与」だということである そして、もしそこにビジネスが介在する余地があるとすれば、「ス ムーズに贈与が進行するために必要なインフラストラクチャーの整 備」というかたちで派生する「セカンドビジネス」としてであろ う その本質をただしく理解した人びとだけがミドルメディアの時代を 気分よく生きていけるのだろうと私は思う

投稿者: uchida 日時: 2010年01月10日

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